茶道爐邊夜話8 結婚適齢と茶の湯

大抵の女學校では、茶儀科を設け茶の湯の作法を教授して居るが、其の時代の女學生は、嫌々乍らの時間潰で、本當に一生懸命にやつて居る者は少い。

戦前は縁談の釣書茶の湯等の免状が必須で、学校でもお茶が必修だった。

實際彼等が抱いて居る茶の湯に對する考へ、自分等の希望する茶の湯は如何なるものであるかといふに、最近、或る會合で忌憚ない意見を聞いたが、一寸面白いと思つたから、其の要領を話してみよう。

つーことで当時の女学生の考える茶の湯

第一は餘りに侘過ぎる。自分等の年齢の者の思想からすれば、侘などは見當もつかない。全然問題外のものである。それにも拘らず、其の師は二言目には侘を云々するが、年齢にはそれに相應しい茶の湯がある筈だ。

「侘び」より「可愛い」とかの方がふさわしい年齢だ。という事か。

第二は、現代人殊に結婚適齢の自分等の服装は相當華美であり、思想は自由主義にも拘らず、變な道具を使ひ、四疊半や三疊へ押し込むのは殘酷過ぎる。そして調和しない。

地味な色無地着せて狭い部屋に押し込むな。という事か。

第三、自分等のやうな若い者に茶器が解せられる筈がないにも拘らず、それの拝見を強要されるのみならず、何等興味のない銘や作者を聞く事を練習させられる。

侘び道具なんてキモいし、作者なんぞ知らんがな。という事か。

それならば、如何なる茶を習い度いかを反問した所、もつと自由な然し、それは決して放埓を意味するものではない、現代人に相應しいものを求める。
そして茶の湯を一種のスポーツとし度いといふ事であつた。
例へば茶席は少なくとも六疊以上、道具はもつと華美な、自分等の思想並にその現はれである服装と調和するものを使ひ、一種の遊戯趣味としユーモアありウイツトのあるものに仕度いと云ふことであつた。

うん、こりゃ茶会じゃなくてティーパーティーの方がふさわしい感じですなぁ。

最後に皆が口を揃へての希望は、押し付けの詰込主義は嫌なもので、理由原因をも教える、理論的教授法に依り度い、そして教師にはもつと教養ある人少なくとも、茶道の歴史、道具の自由選擇位出來る人が欲しい。

ナマイキだなぁ。


でも多分、現代でも茶をカリキュラムに入れたら同じ感想が出そうな気がするなぁ。

それに、もし若い人向けのキャピキャピ茶道を創出したら、そこから卒業して侘びの道に入るのは何才?とかの別の問題が派生しそうだ。


あと、ここでナマイキ言っている女学生が、今の大先生方だからね。
そう思って大先生方を見ると、可愛く見えてくるかも。…ねーよ。