茶道爐邊夜話11 現代人の茶の湯

現代教育を受けた若い知識階級の間に、茶の湯を習ひ、茶事を催し度いと云ふ傾向はあるが、現在の自分の經濟状態では、道具が餘りに高價で、到底手が出ないから、殘念乍ら茶に手を染めないといふのが實情らしい。
其所で私は周圍に居る數人の知識階級に勧め、それで茶の湯に樂しんで居る方法を話そうと思ふ。

今まで提案の無かった「現代の茶の湯」。著者は周囲に提案して推進していた様だ。

その条件はたった二つ。

そして教師は動作の綺麗な事を條件とする。
(中略)
そして平手前だけ充分に腹に入れる。

一つは綺麗な平点前だけ学ぶ事。
これは理解しやすい。

次に道具は、箱書のある物は用ひない。
假に箱書があつても、それを全然ないものとして、道具も選ぶ。
そして道具を選ぶには、茶を點てる用になるか否かを第一條件とし、次に藝術的價値の有無深淺に及ぶ。

道具は箱書の無い、でも良いと思うものを。


箱書があっても使わない、というのがキモかも。
まずいろんな条件の人が、同じ条件に降りられる、という事が一つ。
元々持ってる人も、持ってない人と同じ条件になる。
箱書が無ければ、本当に道具の善し悪しだけを評価できる。

あと、箱書がある道具は、銘やら由緒やらで使いどころが限定されるが、そこから自由になれるというのも面白い。


で、それを使った会記の例が載っているんだが…結局逸翁のやってるのとおんなじものになっちゃうんだね…。