茶道爐邊夜話12 清新な茶の湯
侘の極致、名殘の茶事は、道具の目利、手前の習練は申迄もなく、世の中の酸いも甘いも知り盡し人間として完成された人が催してこそ、謂所一期一會の後世に範を垂れるに足るものを催し得るので、普通人には一寸困難な題目ではあるまいか。
名残の茶事は、老人にしかできない、と著者はいう。
これは侘びという概念が、老人にしか分からないほど難しいという事を言いたいみたい。
なぜなら:
事業界の荒武者共を侘茶の境地に追ひ込み、人生の半面を見せるのも確かに意義あることには違いないが、中年紳士と稱せられる年配の人には、侘の片鱗も解し得ないのが普通であるから、現代の美術工藝、それも絢爛なものを選び、六疊以上の廣間に於て茶の湯を催すのが、それ等の人々の趣味教養に相應しいものであるまいかと考へられる。
壮年には壮年の、華やかな茶の湯があるんじゃないかい?と言っているから。
(前略)現代教育を受けた婦人は、自分の見識に依つて茶道具の選擇をなし、然もそれが何等傳統に虜はれることなく、相當華美な茶事を催すのであることが窺はれると思ふ。
そして女性も。
この二つの傾向は、茶の湯の本旨に悖るといふ批難はあるかも知れないが、利休の茶の一部にもあるものだと思ふ。
自分に相応の茶の湯をする事は、侘びに傾倒した南坊録以降の伝統の墨守ではない。
が、自分にふさわしい茶の湯をするのは、利休の提唱した茶でもあるんだよ…と著者はいうわけだ。
それはそれで正しいと思う。
でも、ひょっとすると著者は、近代数寄者が超大金持ちのくせに侘び茶人面をするのにムカついていただけかもしれんな、とか思ったりもする。
同時代にいたら相当むかつくぜ。リアル侘び人としては。