茶道爐邊夜話14 無秩序の茶の湯

著者は、大寄せの酷さを嘆く。

近頃の公開の茶席の有樣を見ると、これが禮儀作法の嚴格な茶の湯を習ふ人々の行動かと驚く。
(中略)近來公開の釜が掛ると、全く情けなくなるやうな情景が至る處に展開して居る。
茶の湯は、至つて静淑なものと聞いて居るが、この實状は如何なる處から來て居るかを見ると、茶の湯を習ふ資格のない人が世間並に茶の湯を習ふのと、茶の湯を教授する人々の多くが、低級過ぎるのが主因で、更にこれに加ふるに、主催者が設備や準備を考慮せず、客を招待するに依るのではあるまいかと考へられる。

うむ、60年前も今とそんなに変わらなかったみたいじゃのう。

第一資格の問題であるが、家庭生活に物質的に餘裕のない者や、普通教育を受けて居ない者は、理論的に或は例外的には茶の湯の作法を習得し得るかも知れないが、實際問題として見る場合、高級趣味教養である茶の湯には縁遠いのではあるまいか。その理由は、物質的に恵まれない家庭の人々は、何かにつけて、物の見方が偏頗であり、厚顔になり物珍らしそうになり勝であるから、茶の雰囲気には調和しない。

ああ、現代でこーゆー事は大変言いにくいわけだが…情緒が違うのか、格差がもっと大きかったのか。
とりあえず著者は「私は育ちいーもん」と思っていたことは確実だ。

第二の茶の湯の師範の教養問題であるが、人の師範になるものは少くとも、普通教育を受け、恒産があるといふのが重大なる條件であるのは、唯に茶の湯に限つたことではないと思ふ。
然るに現在茶の湯の師匠として看板を掲げて居る人の幾何がこの條件を備えて居るであらうか。

確かに先生やベテラン茶人の方が、傍若無人な振る舞いをなさる事が多い気がしますな。
いや、率直に言おう。ババア程酷い。

次に主催者の側の問題であるが、一流は別として普通の公開の釜は、師匠連中の威勢を示す方法であり、社中を増加せしめる策略である。
(中略)
然も釜を掛けることに依つて別途収入さえ計らんとして居ると思はれ事が應々ある、他の藝事同樣に、従つてより多くの人を集めるに苦心するが、より少い費用で賄はうとするから無秩序にならざるを得ないのである。

つーことだから、豪気にも持ち出しで大寄せを行い得るだけの財力が茶の湯師匠の条件になっているってわけだ。ある意味筋は通っているのか。