茶道爐邊夜話19 道具組の苦心

茶事を催すには、唯漫然と釜を掛けることはなく、假へ常釜にしても、其の時期に依り、趣向のあるものである。
それが一期一會の茶事を催すとなれば、準備に相當頭を使ふので、其の中でも道具組は最も努力するものである。

ということで道具組について。

それも苦心の多い程樂しいもので、あれも使い度し、これも自慢し度い中から、選抜する心事は、決死隊應募の将士の中から、實員を選ぶに似たものがある。
皆んな功を立てさせてやり度い。然しこの一戰だけで終る理でもないから、第二、第三の決死隊にも殘さなければならない。
そして後になる程優れたものを使ひ度い。
とは云ふものゝ初陣の功名をも名乗らせてやり度い。
何れも可愛いゝ自分の部下であるそれも應募者の多い程人選が難しい。
そして一隊を編成するにも、隊長から卒迄適當に鹽梅せねばならない。
将校のみでは戰争が出來ない。
(中略)
これ等と全く同じ事が茶事の道具組に於ても云ひ得るので、名器揃ひも或る場合には結構ではあるが、それは餘程の大茶人でなくては熟し得ないので、名器を雑器とし、雑器を名器のレベルに迄上げて其所に一貫した力の揃つて始めて、本當の道具組が出來たと云はれるのである。

戦前の本らしく、軍隊調の例え。まさかの擬人化である。
でもわかりやすいし、面白い。
道具ってのはロジスティックスも含んで道具なんだな、と思わせられる。

その道具組の巧拙は主人の力の表現で、誰にしても力一杯やつて居るのであるから、茶事に招かれ、石柱で空世辭のみ連發し、一度席を出れば惡口雑言するが如きは、釜一度掛けた事のない乞食茶人か、人の功名を貶す小人で共に語る資格がない。
處が現代の茶人と自稱する連中には、これが相當多いのだから、現代の茶の湯は、茶の精神などは、何處に置き忘れたか疑い度くなるのである。

当時の「現代」、有名茶人が新聞に茶会記を載せ、面白くするために悪口とかも書いてた。
そういう背景を考えると、上の文章もよく理解できる。
でも、そういう面白可笑しい茶会記の公開がないと、お茶は広まらなかったとも思えるので、批判が当たっているかは微妙なとこだ。