茶道爐邊夜話20 茶と禪

茶人がよく茶は禪から出たものであると自慢するが、そのやうな連中に限つて、禪の何物であるかの片鱗にさえ觸れて居ないのだから笑はせる。
茶が禪から出たが故に難有いならば茶道に精進するのを止めて、其の源流に入つた方が面倒もなく、効果的である。
(中略)
參禪すれば精神的修養は得られたかも知れないが、本當の悟道は口で云ふ程簡易なものではなし、生半可な參禪は觀念の遊戯に過ぎず、僧堂を一歩出れば世を迷す謂所野狐禪に終るのである。
茶道に於て野狐禪が虚假威に茶禪一味などの語を振り廻すのは全く迷惑至極な話である。

茶禅一如という幻想…というより茶人の思い上がりに対する痛烈な批判である。
禅がやりたいなら禅をやればいいのである。片方やれば両方やった事になる、というのは虫が良過ぎるというものだ。

僧侶にしても現代の禪坊主の多くは禪の奥儀を究めるよりも、如何にして錢を儲けるかにより以上頭を動かして居る。

まぁ一行書を書きまくって追徴された坊さんもいるわけだしなぁ。

偖、茶道は禪には大いに關係はあるとは云へ、
茶道あつての禪で、禪の為の茶道ではないと思ふ。
この邊の本末轉倒は生半可な禪坊主の樂書を床にかけて客を招くやうな失禮な結果を來すので、大いに注意せねばならないと思ふ。
現に京都の某本山の坊主は書や畫を賣つて花柳の資として居るのにも拘らず、それを知り乍床に掛けて居るのだから、半可通の茶人などは良い加減なもので、時には軽蔑し度くなるのは止む得ぬ。

先斗町で羽振りいいのは坊主か医者っていいますしね…。

現代の茶掛けってのは、書いた坊主のその後の素行まで気を付けないといけないって事か。