茶道爐邊夜話21 洋服で茶の湯

人或は、洋服では帛紗を如何に扱ふかと云ふやうな問題を出して得々として居るが、これは餘り誉めた見方ではない。
何となれば茶の湯の手前をするに従來からある洋服を其の儘使はうとするから、色々面倒な事が出來るのであつて、茶の湯の初期に於ける茶人即ち今日の茶の湯の基石をなす人々は外來のものを如何にして使つて居るかを見ると、餘り大きな口は叩けない筈である。

洋服の茶の湯は駄目だ、と無碍には言えない。昔から和漢の境をまぎらわすのが茶人の仕事だと、著者は言う。

手前するに洋服で都合が惡ければ、それを都合よいやうに改良すればよいのである。
或は通常服に限らず、西洋の服には色んな型があるのだから、其の中で適當なものを選び、其の儘用ひてもよし、或は一部のデザインを改良すれば、茶の手前に何等差支ないのみか却つて又一風變つた面白いものが出來ると思ふ。
例へばガウンを手前に手前に都合のよい形にし、
それを制服にしても立派に茶と調和するので、生地にしても必ずしも
毛織物のみに終始する要もなく、好みに依つてはレースも
應用し、刺繍もし、年齢に應じた服を創作すれば何等差支ないのである。

洋服だって工夫すればいいと著者は言う。
…「花月の友」はまだ実用化されていなかったっぽい。

以上が普通新しい思想の持主の意見として聞く説であつて却々面白い見方ではあるが、實際三疊、四疊半などの茶室に入つて茶を點て、頂く時の雰圍氣には如何しても洋服では調和しないのである。
(中略)
日本人が日本人の趣味に依つて選擇したものを使ひ、長年月を要して完成された茶の湯には、日本服を用ひるのが正當であり、調和するのであると信ずる。

ズコーーーーーーーーーーーーーーーー。

手の平返されるとは!やられたぜ…。