茶道爐邊夜話25 茶事の時間

世の中が忙しくなるにつけ、内外共多事で、茶事を催すにも前後四時間に渉るのは苦痛で、何とか時間の短縮の方法はないものだろうか。
せめて二時間位になると、時々茶事を催して樂しめると云ふ話を盛んに聞くと、私は何時も、時外の茶事をやれば、其の目的は充分に達せられると云ふと、時外では何だか物足りないから正式の茶事をそれだけの時間で催し度いと云ふ。

江戸時代には「四時間過ぎてもだらだらしてんじゃねーよ」と言われた茶事が、すでに2時間以下にならんかいのう?という時代に突入していた。

處がそんな人に限つて實際は喋るのが多忙で、遊ぶことには平氣で長時間を費して居る。

…まぁそうだろうね。他の遊びもしたいから、お茶の時間を短縮したいんだよね。

目を樂しましめるには露路の風景から、茶席に入つてから、茶席に入つては軸あり花あり道具あり、鼻を樂しめるものには香あり、耳を樂しめるには、釜の松風、茶筅の静かな(略)
これだけのものの揃つた茶事を樂しむに、僅か四時間は、餘りに勿體な過ぎる。

もちろん著者はそれに否定的。

然し一方、現代人は實際上人的に餘り時間を輿へてられて居ない人もあるのであるから、時には炭手前を省略し、或は濃茶を除き薄茶のみにし、濃茶を練るにしても、續薄茶にするなどし、時間の短縮するなど、時宜に依つて適當にすればよいのである。

全て当り前の工夫ではある。
ここから判るのは、今では定番の様に行われている続き薄茶は、昭和初期にはそれほど主流派ではなかったのかもしれない、という事か。