茶道爐邊夜話26 流儀は獨善か

茶人の中には、自分の稽古して居る以外の流儀の人と交際しないとか、他流の好物や宗匠の書附のある道具は絶對に使はない人があるが、これは餘りに狭量ではあるまいか。

他流と交流すると、色々違いが見えて面白い。
だが、普通は交際の中心はどうしても自分の社中になりがちであるとは思う。

道具にしても優れたものであれば、他流だとて決して遠ざける要はないのみか、大いに採用する處に變化も生れ趣味もある。
書附とても同じことで、他流の宗匠が書附したからとて、其の本體である道具の本質には何等變化を輿へないのであるから、別に問題にするに足りないと思ふ。

確かに書付で道具の本質は変わらない。
だが本当の問題は、大した事がない道具に書付で箔を付けて売る道具があまりに多いということだ。

其の弊風は何にも由來するかを考へると、外にも色々の理由があるだらうが、其の最初は茶の湯の眞相を知る迄に、色んな事を教えたり見たりすると、横道に入り易いのを防ぐ為めに嚴格に云つたのが起源ではないかと思はれる。

弟子が他流に興味持たない方が勉強が進む、というのは嘘ではないとは思うが、どっちかつーと師範連中の囲い込みじゃねーの?
同流で奪い合いはしづらい雰囲気は出来てるわけだし。