茶道爐邊夜話28 藝術としての手前の保存

能にしても歌舞伎にしても、長日月の間に洗練を重ねて此所迄來た、最早完璧の藝術であるから、それに上手位の人が手を加えたり、工夫するのは、結局改惡に終わる場合に多いのであるから、大いに愼しまねばならぬと思ふ。

能も歌舞伎も完成した伝統芸能なので、これ以上の工夫は改悪かもしんないよ、と著者はいう。
…芸能は完成していて進化しないってのは素人考えじゃないかなー。

これと同じ意味で、茶の湯の手前も亦三百年以上も改良を加へられ、現代行はれて居る手前は最早立派な藝術で、茶を點てるだけの單なる手續ではない。試みに其の手前を注意して見れば、其の姿勢の優美、動作の圓滑、手前の順序の良さは、何等批難すべき點は見當らないのみか、完全無缺と云つても差支えない程洗練され盡したものである。

茶の湯の点前も芸術だ、と著者は言う。

でも「型としての完成」みたいなのを認めるのって「茶の湯の点前は心とか関係ないですよ」って言うようなもんなんだけど、判ってるのかなー。

従つて、茶道の正統である千家の家元が、手前を嚴格に云ふのは當然で、私をして云はしめれば、唯單に順序だけ覺えたゞけで、許状を輿へるのは、時代とは云へ餘りに家の藝術を安價に評價し過ぎては居ないかと思ふ。
(中略)
要するに、藝術としての手前を現在以上に大切にし、其の型の後世に傳える為めに、家元は嚴格なる制度を確立するのが當然の義務ではあるまいか。

ああ、単に千家批判がしたかったのか。
金儲けばっかせず、許状を与える以上、見合ったお稽古させろって事ね。