茶道爐邊夜話30 成金と茶の湯

大名には大名として、公卿は公卿として、富豪は富豪としての禮儀もあり習慣あり教養を必要とするのは、古今東西共に通ずる處である。
従つて其の一でも缺けて居ると肩身の狭い思ひをせねばならない。
そして周圍からは成上り者だの、成金だのと批判される。

階級社会においては、その階級毎の儀礼というのがあって、それを理解できないまま下から上の階層にあがると「育ちが悪い」と言われる。
ま、上から下の階層にくだると無知はむしろ「育ちの良さ」として評価されるわけだけど。

處が幸なる哉、本來無差別といふ茶の湯があるのだから有難過ぎる。
茶の湯は人皆一代にして得られる教養であり、高等常識であるから、社會適の地位に左右されず、其の道に入る人の頭の良否に依る。
従つて稽古し精進して効がある理である。
これを最も上手に利用したのは豊臣秀吉である。

日本には階級社会をぶち抜いた上で、教養として評価される茶の湯があって便利、と著者は言う。
そしてそれを最も上手く利用したのは、最大の成り上がり者である秀吉だと。

…秀吉の茶風のざっくばらんさを考えると、本当に上手に利用できていたのか疑問だが。
誰からも評価可能な共通の礼儀として茶の湯を利用し、その上で茶の湯からすら逸脱してみせるというパフォーマンスだった可能性もあるね。

つづいて大正以後の成金、否成功者が、財的には優位に上りながら、社交上急激に向上出來ないのが茶の湯に依つて相當多く救はれて居るやうに思ふ。

明治初期は三井や住友や鴻池の様な大店の当主がむしろ主導していたくらいなんだから、これが正しいか疑問はある。

…というか、茶の湯を学ぶだけでは、意地悪な相手から知らない儀礼の集いに招かれる、というのを回避できないわけだから、若干考え過ぎなんじゃないかなー。