茶道爐邊夜話31 墨蹟の疑問

茶人は墨蹟を喜び珍重して床にかけて賞玩して居るが、古徳の筆蹟を見てその徳を偲ぶならば未だしも、其の書かれた意味を解して賞するとなれば、其所に疑問があるやうに思える。
墨蹟として珍重されて居るものに書かれて居る文字は大低、偈か公案で、その解釋は僧堂に苦行する人々でも却々難しいものが多いやうに聞いて居る。

墨蹟の文字は普通は禅語で、その解釈は出家して一生懸命考える様な内容。
なので、茶室で気楽に解釈していい内容ではない。

然るに普通の茶人がこれを見て結構で御座いますと云つて居るが、それは何を意味して結構と云つて居るか見當がつかない場合が多い。
勿論主人は老師なり師家に其の意味を聞いて使つて居るのであらうから、客が知らずに賞めて居るとすれば、主人を侮辱することになりはしないだらうか。
(中略)
そうしてみると、茶人が墨蹟を尚ぶのは、禪僧が先師に敬意を表し、その教を受けんが為めその墨蹟を掛けるのを鵜呑にしたより思えない變なものではあるまいか。

だから、茶人がその内容を結構というのは何に対してしてなのか?
著者は「何に対してなのか判ってないんじゃねーの?」と思っている。

以上は古い墨蹟と稱するものに就いての話であるが、近來現存の禪僧や宗匠の書を盛んに用ひるが
(中略)
床にかける以上其の書かれた文の選ばれて居るのは申迄もなく、書も人格が現はれて居る筈である。
處が其の文は先輩のものが多いのであるから問題はないが、床にかえ其の徳を偲ぶ程の僧侶が現存して居るであらうか。
師家と稱し印可證明の濟んだ僧ですら、随分變なものが多いのである。

そして内容ではなく、書いた人を偲ぶとしても、今時は偲ぶ程の名僧いないじゃん、と著者は言う。
同感である。…勉強不足で尊敬すべき坊主に知り合っていないだけ、という可能性は放置するけど。

序に、近來茶席に墨蹟を用ひるよりも、歌切風のものを喜ぶ傾向になり、墨蹟は價格が少々とも下つたに反し、歌切風のものは急に騰貴して居るのは、前話した事に何だか關係があるやうに思える。

だから墨蹟の値は下がり、歌切は上がると著者は言うが、それはどうだろうか?

毎日新しい墨蹟が書きまくられている墨蹟と、いまさらあんまり増えない歌切だと、墨蹟がデフレ気味になるのは当然なんじゃないかなー。