茶道爐邊夜話32 文人畫

昔の茶の湯には、文人畫を愛用し、墨蹟、歌切、色紙、懐紙、消息等と共に床にかけて居たが、近來文人畫を排斥し、抹茶に不適當であるとする風がある。

確かに文人画は「僕等のお茶」では使わない。
茶の湯の美術館で見る事もあるが、さほど感心もしない。

かつての近代数寄者達が買い求めたという事は、戦前はお茶に使っていたという事か。あまりに興味が無いのでお茶に使えると言う発想自体なかった。

如何いふ理由で、近來の文人畫が排斥されるかを見ると、徳川中期支那文化輸入全盛期に於て、文人畫を書くのは、支那文學耽溺者である漢學者が主なるもので、彼等は、陸羽の茶經を神典の如く信じ、煎茶を樂しみ、抹茶は無學文盲の者のやる低級な遊戯の如く貶した。
然も煎茶の流行は明治中期に迄及んだ。
それに加ふるに、學者と僧侶の反目も作用した。
(中略)
要するに徳川中期以後の文人畫の抹茶に採用されない理由は、色んな原因もあるが、其の異つた立場にある煎茶家の重要視する文人畫を反動的に排斥敬遠したといふのが、正しい解釋ではあるまいかと思はれる。

つまり煎茶道文人趣味への反目から使わなくなった、と著者はいいたいわけか。

でもどうなのかな?
煎茶道の生まれる前/儒学の流行る前、室町時代の終わり頃には文人趣味の絵はお茶で使われなくなって、墨跡に取って代わられている。

やはり小間の侘び茶に横物の多い文人画がそぐわなかったというのが正直なところじゃあるまいか?