茶杓をつくる8 狂い竹が面白い

茶杓で楽しく面白いのは狂い竹のものである。
本格の儀式に用いるような茶杓は、順竹の白竹の、どこにも傷もシミもない、清純端麗なものがよいことはいうまでもない。

来歴はさておき、茶杓の表現には曲げと削り以外には竹自体の面白さしか見どころはない。
竹の面白さは最も重要で、曲げや削りでどうにかできるものではない。

竹は自然の生きものの原理に従って、たけのこがグングン伸び育ってゆくとき、ゆったりとした螺旋運動を描くように伸びてゆくから、真っすぐに伸びているようでも、必ずすこし螺旋状に曲がっている。この曲がり方が極端に曲がったようなのは狂ったもので、実に面白い形の節や樋が出来ているものがある。
また、虫が入ったり、何かの原因で穴があいたり、小さな蜂が穴をあけて、巣くったのなどは、裏が石のようになっていて、そのままで面白いし、そういう狂った竹は、表の皮目までが穴があったり、不思議なシミや斑点などが出来ていて、なかには、えもいわれぬ風情のものがある。

竹の美としては、成長仕方の美と、アクシデントの美の二つがある、と作者はいう。

こういう狂いは、狂いながら自然である。芸の極致である。私はそう思う。
狂わせようと思ったら、こういう狂いにはならない。
人為の、さもしい心根が、さかしら心の傷跡がどこかにあらわれていて、いやらしいものになる。

実際には、店で買える銘竹にはさまざまな作意が加わっている。
著者がそれを知らなかったとは思えないし、知っているからこそ書ける文章のようにも思える。

著者は最終的に全国に竹を探しに行く、という超越した生活をしているのは、銘竹屋での竹の購入を早々に切り捨ててしまったからなのかもしれない。