茶ァ喰らい爺 負の民俗学4 チャアクライジジイのこと

余った茶を田の畦に供えて(捨てて)いた老婆との会話。

「どうして田の畦にお茶をお供えするんですか。」
「田の畦にはな、チャァクライジジイがいてるさかいな、ほんで、それにオマシてくるんや」

ここから茶ァ喰らい爺の考証が始まる。

無駄になったものも、(空想上の)他者への施しであれば無駄ではない、という美徳の有り方。
オチャトが施餓鬼を兼ねていた様に、茶ァ喰らい爺もまた餓鬼の一種らしい。

ところがこの葛野で聴取した「茶ァ喰らい爺」は、男性の年輩者の霊魂とおぼしきものへの命名なのである。しかも「ケ」である普段の暮らしの場における呼称なのである。
その上、「茶ァ喰らい爺」と呼び捨てにしていて、「茶ァ喰らい婆」とか「茶ァ喰らいお爺ちゃん」とは呼んでいない。

著者の考証は貧乏神の神格が常に男性の年配者である事に向かい、遂に次の結論にたどり着く。

年よったから男は役立たずと考えられたのか、その年寄りが家で茶ばかり飲んでいるから役たたずと考えられたのか、とにかくこのような状態にある男性の年長者が疎んぜられ始めていたことは窺い知ることができるのである。
男性の年長者が貧乏神に見立てられるのもこのような経緯があってのことかも知れないのである。
(中略)
いずれにしても、年を取ってから家でうかうかお茶も飲んではいられないという現実感は示唆されているようである。お婆さんはどんなに年寄っても、家でせっせとたち働いていたということになるであろうか。

「粗大ごみ」の前の時代の言い方か。せちがれぇ。

労働集約的な時代には男の老人は立つ瀬がない。
だが、そういう役たたず扱いされた人物でも茶を飲める、というのだから、庶民の茶の文化は豊かだったと言っていいだろう。

だが、同時に茶ばかり飲んでいる非生産的な存在は半ば妖怪的な存在と認識されてしまう。

僕達のやっているお茶だって非生産的なソレなので、世間様的には同じ扱いかもしんないよ?