利休を巡る色々

千利休

田中与四郎/千宗易が利休と呼ばれる様になったのは、天正13年の禁中茶会がきっかけである、というのが定説。

つまり「無位無冠では禁中茶会に出る際に困るので、居士号として貰ったのが利休の名」である。

兼見卿記 天正13年10月7日にはこうある。

次於端ノ御座敷ニ於テ
御茶ノ儀在シ
理休居士茶道
臺子ノ御茶湯也
一番一條殿ヘ参也
七人籤取第一一條殿被取シ参也

その数日前まで宗易だった人物がこの日が利休と呼ばれた事は確か。

千利休のすべて」に集録された千原弘臣「利休居士号」によると:

古渓和尚は利休居士号勅賜を祝い、賀頌を贈った。『蒲庵稿』にのる正文は次の通り。

泉南之抛筌斎宗易廼余三十年飽参之徒也。禅余以茶事為務。頃辱特降。綸命利休居士之号。
(中略)
『乙酉菊月 日(天正十三年九月日) 古渓叟』」

という事で古渓が勅命で利休号を授けた事になっているのだが。

ただし綸旨は本紙も写しも伝世しない。

やや証拠に乏しい気がする。

「利休」が本当にこの号が必要だったのか?などいろいろ考えてみたい。