利休を巡る色々4 千という名字

利休は秀吉政権のブレインとして活動していた事が知られている。

しかし彼はあくまでも市井の商人である。
後年千家は、「千家由緒書」で田中家を里見家の血を引く(つまり徳川と同じ新田源氏である)と説明しているが、あくまでも大名家出仕の為の方便であろう。


宗易の頃の千はおそらくただの屋号。

同じ茶人の会記でなら屋号も使うだろうが、公式の書類で千、という名字を書いたものを私は知らない。

古田織部が古織殿、と愛称で呼ばれるが、利休が千易殿、みたいに呼ばれた例を私は知らない。

概ね「堺 宗易」たまに「利休/利休居士」という名で呼ばれていた。名字のない平民なのに権力持ってる切れ者の茶堂として彼は活躍していたのではないかと思う。

だから千を名字にしたのは後代だと思うんだけど。

たぶん「千家由緒書」を出したあたり。三兄弟の出仕の時点がソレなんだろうなぁ。