茶道太平記2 喫茶の開祖

さて、茶の歴史に、まず第一に登場してもらう人物は、なんといっても、僧栄西である。

という事で栄西。普通の茶書なら「栄西は中国で禅を学び、帰国時に茶を招来し、喫茶養生記を書いた」で終わりなのだが、本書はちょっと違う。

大師といえば弘法の独占物であるように、茶と禅は、栄西が開祖になってしまっているが、この点栄西は、史上において、はなはだ幸運な存在である。
しかし、それは幸運というよりは、実際には、栄西はその栄誉をみずから克ちとったほどの、なかなかの人物、相当の手腕家であったようである。

栄西のかなり生臭い部分に視線を向けている。

坊主というとちょっと愛嬌のあるユーモラスな感じをあたえるものがある。
しかし坊主が可憐になったのは、仏教が転落して、威厳を失った近世以後のことである。
それ以前は、ユーモラスどころか、僧侶というものは、荘厳そのものであり、おそろしいものであり、深刻なものであった。

平安期の偉い坊主というのは荘園の管理者であり、そこを守るための軍勢の所有者だったりもする。
そして鎌倉期の偉い坊主というのは、守護地頭の台頭の中で荘園を守るだけの政治力が必要だった。

延暦寺の訴状によって、達磨宗停止の命が発せられ、京洛の地に新宗をひらくの困難なるを見るや、彼は幕府をたよって鎌倉に下った。
東下していくばくもなくして、彼は将軍頼家や母政子の帰依を獲得し、その地盤を着々ときずいて行った。
煮ても焼いても喰えない女傑の、尼将軍政子なども、栄西にかかると、コロリとまるめこまれてしまった有様が、「吾妻鏡」の断片的記事からも推測される。

権力者に取り入る物としての辣腕栄西像。

しかし医師栄西は、ゴマを焚いて怪しげな加持祈祷をする、そのころの坊主医者とはすこしちがっていた。彼は、当時の最新覚醒剤である「茶」という妙薬をもっていた。こんなところにも、彼がそのころの凡百の僧侶より、はるかに超えたものをもっていたといいたい。

そして医師としての栄西像。

吾妻鏡の医療記事を見るとこんな感じ。

辰尅。前奥州義時病惱。日者御心神雖令違乱。又無殊事。而今度已及危急。仍招請陰陽師國道。知輔。親職。忠業。泰貞等也。有卜筮。不可有大事。戌尅。可令属減氣給之由。一同占申。然而始行御祈祷。

陰陽師とか呼んで祈祷させるのが当時の一般だったんだから、茶を処方する、というのは最新科学だったんだね。

生臭い権力闘争も出来、将軍家の侍医としても活躍出来るマルチな人物であるからこそ書けた喫茶養生記、という視点、なかなか面白いのではないか?