茶道太平記3 婆佐羅の世界

本書は茶人のエピソードを、歴史の状況と共にミモフタモナク紹介する。

それならば、この「ばさら」に象徴される南北内乱期の社会はどんなものであったか、しばらく思いつくままに、その一端をえがいてみようと思う。
(中略)
この半世紀の南北内乱を通じて、宮廷、貴族などの荘園領主鎌倉幕府によって代表される古い武士領主勢力は、あるいは没落し、あるいは大きく政治的な後退を示した。
(中略)
悪党は畿内を中心に、遠くは出羽、陸奥にまで及んだ。
ほぼ全国的なひろがりをもっている。
大きなものは数百人の集団で、荘園をあらし、年貢を横取りし、荘官を襲い、城をかまえて荒れくるった。
荘園領主をいためつけ、幕府に抵抗して、その支配秩序をゆるがせていったのだが、同時に彼らは、百姓の牛馬や食物をうばい、百姓に重税を課し、良民を苦しめた。
(中略)
これらの悪党の力をうまく利用して、まがりなりにも武家政権をたてたのが足利尊氏である。

侍、という地場の武装集団の力が大きくなってきたのを、「源氏の血筋」と「御恩と奉公」で縛って力にしたのが鎌倉幕府

源氏の血筋も失って、元寇で御恩と奉公の関係性も崩れて鎌倉幕府崩壊。地域領主の力がまた大きくなったのが南北朝期。源氏の血筋で再統合したのが足利尊氏と思えばよいのかな。

大きな違いは、頼朝の頃の武士は文化の担い手ではなかったが、尊氏の頃には文化の担い手足り得た、ということか。

延元元年、尊氏は、開幕とともに、「建武式目」十七ヶ条というものを出した。いわば彼の最初の施政方針演説である。
その第一条に、倹約を行わるべきこととして「近日、婆佐羅と号して、もつぱら過差を好む、綾羅錦繍、精好銀剣、風流服装、目を驚かさざるものなし、すこぶる物狂というべきか。富者いよいよこれを誇り、貧者およばざるを恥ず、俗の凋弊これより甚だしきはなし、もっとも厳罰あるべきか」とある。
第二条に、群飲佚遊を制せらるべきこととして、「好女の色にふけり、博奕の業におよぶ、此外またあるいは茶寄合と号し、あるいは連歌会と称し、莫大の賭におよぶ、その費え計るにたえがたきものか」と云々とみえる。
第三条に、狼藉を鎮めるべきこととして、「昼打入、夜強盗、所々屠殺、辻々引剥、叫喚断絶することなし、もっとも警固の御沙汰あるべきか」とある。
この三ヶ条は、次にかかげる有名な「二条河原落首」とともに、こんとんとした内乱勃発期の「ばさら」的世界の情景を、伝えてあますところないものといえよう。

政策の最初の三項目が「ハデハデ禁止」「博打禁止」「乱暴禁止」なのだから、悪党に悩み、去勢しようとする室町幕府の苦悩が伝わってくる。

でも道誉の数々の所業も、こういう秩序再構築の最後の徒花と思えばちょっぴり悲しいものがある。

佐々木氏の邸は、京極三条南にあったといわれる。
(中略)
京極三条南といえば、いうまでもなく、いまの京都における最大の熱鬧の巷、「新京極」のあたりである。
(中略)
近江勝楽寺の墓の下から、道誉は、新京極の、映画館、呑み屋、土産物店、パチンコ屋、グレン隊の横行、さてはストリップショウなどの喧騒を、いかなる感慨でながめているであろうか。

修学旅行の学生の整列は郎党の狼藉にくらぶべくもないが、新京極に限らず、世間一般が婆佐羅っぽい世界になったとは思うよ。市民が力を持って文化の担い手になった世界なんだから。