茶道太平記4 中世の残照

南北内乱期の名僧といわれる夢窓国師は、その著書「夢中問答」で、「近頃世間デケシカラズ茶ヲモテナサル」などと書いている。

いきなり夢窓疎石が世間の茶に批判的であったことから入る、というのはなかなか他の茶書には見れないかもしれない。

とくに、嘉吉から長祿、寛正のころは日照りや、風水害にともなうききんはひどかった。
(中略)
将軍義政は、民衆の塗炭の苦しみをよそめに、しきりに土木工事をおこし、歌舞宴遊をなし、物見遊山に日をくらして、天下の財を傾けた。
(中略)
義政が、享楽と放心に日をおくっているうちに、応仁の大乱が勃発した。
(中略)
政治的にまったく傀儡とされた義政は、将軍をやめたのち、そん不満と憂愁をまぎらわすために、京都の東山に隠棲し、ここに「天下の奇観」といわれる東山々荘を営んだ。

そして義政のろくでもなさを強調するとこから入るのも、なかなかないかもしれない。

この東山々荘で、義政は茶をたしなんだ。
(中略)
私は、義政のたしなんだ茶の世界は、いまだ殿中の茶事を、すこしもでるものではなかったと、考えたい。
東山々荘と義政が耽溺した美の世界は、戦乱に荒廃した京都の町々とはまったく別天地のもので、奢侈と享楽のうちに幻覚の夢をむさぼるがごときものであった。それはきわめて美しく、しかも、いぶし銀のごとく磨きあげられたものであった。

著者はどうも後世の人間(といっても山上宗二だから100年後)が、「こんなダメ人間なのに茶の湯の権威付けに使われてたんだよ」と言いたいみたいなんだけど、それはどうだろうか。

もしかすると義政がダメ人間だから茶の湯の権威に使われたのかもよ?

当時の茶人は皆豪商。つまり仕事ができる人々。
仕事が駄目なのに美に耽溺して人生を送りゃいい、という立場自体に憧れていた可能性が有るもん。