茶道太平記5 茶湯の揺籃期
珠光と古市播磨のお茶がどういうものであったか。
ところで、この茶祖といわれる村田珠光という人物のことが、じつは、はっきりわかっていないのである。
彼は文亀二年五月に、八十一歳で没したといわれているが、彼について書かれているものが、おおむね後代の文献で、彼の生存時代の主要な記録類には、その名前も、そしてその足どりも、ほとんど記されていないのである。
(中略)
私は、はっきり確信しうるわけではないが、どうも大永のころから天文にかけて、つまり十六世紀に入って、宗珠などの新しい「侘び茶」の傾向の流行とともに、珠光という存在が、かなり意識的にクローズアップされてきたように思われる。
珠光という人物は、宗珠がおのれの父に仮托してつくりだした人であるなどとは、もちろんいわない。
たしかに彼は実在の人物であろう。しかし、おそらく在世のころは、名もない存在であり、身分の低い出身であったのではあるまいか。
- 珠光の実像はわからない
- 後世に猛プッシュされた可能性が有る
昭和30年代の本としては、この視点は早いんではないかな?
なお「身分が低い」とは書いているものの、唐物名物の所有から金持ちであったろうとの推測も有る。
私の読み聞きしてきた珠光像はかなり侘びた存在なのだが、それって違うんじゃないの?と著者は言っているわけだ。
古市というのは、奈良の東郊の一聚落で、(中略)古市氏はこの在地の有力者で、興福寺の衆徒として、福島市の代官をつとめていた。
(中略)
さて、古市の惣領となった澄胤は、しばしば筒井およびその一党と戦って、しだいにこれを圧迫し、文明十三年に筒井順尊を破っていらい、長享、延徳をへて明応六年ごろまでの十数年前は、彼の得意の時代であった。
古市播磨は下克上の時代を体現した、奈良の有力者であった。
彼は、奈良をはじめ大和の各所に対して、しきりに新儀の不法を行った。
その主なものは、苛酷な税金の取り立てと、ほしいままの賦役の徴発であった。
(中略)
彼は、強力な足軽兵団をもっており、なた奈良やその他に多くの被官=家臣を配置しているが、彼らは、いわば暴力団のようなものであった。
彼らは所々におしこみ、物をうばい、人を殺傷した。
んでもって結構なワルだった様だ。
彼は連歌をたしなみ、みずから頭人となって月次連歌会をもよおした。
(中略)
そしてなによりも注目されるのは澄胤が、みずから茶書一巻を著したという点である。
この茶書がどのようなものであったかは、まったく明らかでないし、またそれが本当であるかどうかも疑わしいが、かりにそれらしいことがあったとすると、これは驚くべきことである。
このころの成り上がった武将などで、物の本を読みうることさえなかなか珍しいのに、みずから書物を著すということは、まず稀有のことに属するからである。
下克上してきたワルで教養が有る、というのも時代性。
なお、松永久秀もナニな本を著したという伝説があるし、後代の松屋さんも長闇堂も著述に余念がなかったわけなので、奈良の茶人の文化的特性かもしれない。
事実、澄胤が茶湯をたしなんだことについては、確実な明証がある。
「尋尊大僧正記」の、文明十三年の正月一六日条には、古市が茶頭となって「大会合」が行われたとあり、また正月八日の条には、古市茶頭の茶会は、金銀の料足などはなはだ大げさで、毎晩行われた、とみえている。
(中略)
さらに類推すると、澄胤を一番弟子にもった珠光の茶にも、唐物数寄の性格とともに、闘茶や茶寄合の系譜に立つ淋汗茶湯的な性格が、まだ色濃く残存していたのではあるまいか。
澄胤がハデハデ茶会だとすれば、珠光もそうでないとはいい難い。
我々は利休以後の茶の湯を規準にその前も考えちゃうんだけど、珠光の頃はその規準にあてはまらない全くの別物だったのかもしれない。
つまり本当に利休が「山を谷、西を東」に改革したのかもしれないね。