茶道太平記6 自由都市・堺

紹鴎のすこし前の人だが、京都に宗純という禅僧がいた。
(中略)
一休は狂雲子と号しているように、洒脱と奇行で有名である。
(中略)
この現実性、俗物性、とらわれぬ露出性というところで、一休と堺の町人は相通ずるものがあった。
しかし一休自身の行動派、ひとつの虚勢のおもむきが強く、一休は、本質的には、ついに古い貴族的仏教的社会の人でしかなかった。
(中略)
というより、一休の破格を以てしても、ついについて行けなかったと、という方がただしいかもしれない。

いきなり一休ぶった切りであるが、そういえば一休は自分では破戒しているのに他人の行状にも忖度してしまう。偽悪しながらも伝統的な価値観を健全なものとして保ち続けている。虚勢といわれてもしかたないかもしれない。

まぁそんな一休がなじめなかった大都会、堺。

堺はそのころ、京都、奈良、兵庫とならぶ、人肉市場の街であった。
(中略)
のちの元禄の、上方を中心とする町人文化は、このような官能的世界の肯定、いいかえれば赤裸々な人間的な哀歓の世界に、花開いたものであるが、堺などは、まさにかかる町民的な文化的世界の、密醸された、先駆的都市であった。

清濁併せ呑むとはいうが、濁の方は実に解放的な場所だったようだ。

しかしなんといっても、堺のいちばんの特色は、領主のいない町、すなわち「町民の都」であった。
(中略)
堺では、市民的な互譲と寛容の精神が、とくに進んでいた。

そして自由都市としての非封建的な精神。

堺は、「仏国」といわれるくらい、寺院が繁栄していた。
(中略)
ところで、堺の町人は、宗教をよく理解したというよりは、むしろ反対に、はなはだ冷淡なのであった。
(中略)
死んでから極楽や天国に行くより、死んだら畜生になっても結構だから、この世では人間らしく、現実的に楽しく生きた方がよいというのが、堺衆のいつわらぬ考え方であった。

さらに現世利益主義。

万里の波涛をこえてやってきた異国の宣教師の教えに、いちばん耳をかたむけなかったのが、堺衆であり、迫害された宣教師個人に対して、だれよりも親切にいたわっ
てやったのが、また堺衆であった。
(中略)
まさしく、堺は呪術から解放された、「人間の町」であった。
(中略)
このような自由な土壌の上にこそ、新しい芸能の発展がありえたのである。
茶湯が、その発生地である京都や奈良でなくて、伝統や因習に束縛されることがより少い、堺という新興市民都市において、やがて茶道として形成開花されて行ったのも、また故なきことでないと思われる。

こういった気風があったからこそ茶人達が活躍するようになったんだよ。
紹鴎はたまたまそのNO.1有名人の名前なのさ、と著者はいいたいらしい。

だって:

紹鴎が、定家の「見渡せば(略)秋の夕暮」の一首に托して、茶湯のなかに、はじめて「わび」の理念を確定したこと、彼が茶禅一味の境地のもとに、四畳半の簡素な茶室を完成したこと、それまでの唐物数寄の世界をはなれて、茶湯の和風化をおし勧められたこと、などについては、ここでは深くふれない。

その詳しい点に触れないんだもん。

もし紹鴎という個人が出てこなかったとしても、歴史の必然として代りの誰かが出ただろう、という感じだろうか。