茶道太平記7 大名茶の発生

社会の変革期には、しばしば異常な性格の人物があらわれてくる。
(中略)
さしあたって、松永久秀織田信長などは、その代表的なものであろう。

エラい言われようだが、つまり久秀と信長のお話である。

久秀と信長は似ている点が非常に多い。
(中略)
主家を亡ぼした点では、久秀と信長はまったく同格である。
(中略)
将軍をないがしろにした点では、両者ともおなじことである。
(中略)
信長は、ここ数百年来、だれもやれなかったことを断行したのである。久秀の大仏殿焼亡などという、なまやさしいものではなかった。

ということで二人は似たものである、という話。

でも違った点も結構あって:

信長は、集めた名物を、部下将士に、論功行賞として頒った。
彼は茶湯を、政治的統制に利用したのである。
(中略)
この茶湯の許可制は、なにを意味するのであろうか。
(中略)
茶湯が大名としての特権となったとき、ここに、いわゆる「大名茶」が発生する。「大名茶湯」ということばは、紹鴎のころからもあるが、それは「古今唐物をあつめ、名物かざり、数寄」をするもののことであった。
この名物かざりにくわえて、茶湯そのものを、封建的序列の荘厳化の具とする傾向がうち出されて、大名茶が生まれる。
大名茶の創始者は、じつに信長その人であった。

茶の湯のスタンスに関してはこうも違った。いわゆる茶湯御政道の話である。

著者が、大名茶という言葉を江戸時代に入ってからの大名茶と同じものと考えているかそうでないかは明らかでない。

でもたぶん、おんなじ意味合いで使っているんじゃないかと思っている。

久秀が、天正五年以後に生きていたとしたとしても、おそらく彼には茶湯は許されなかったであろう。
かつては天下の覇者たるべき道を、あと一歩というところまであゆんだ久秀にとっ
て、そのことは、彼の矜持を、ひどく傷つけるものいになったにちがいない。
彼はよい時期に死んだ。

それはどうだろう?
「許可とかいるかい。わしがいつから茶湯やってると思っとるんじゃ」とかいって勝手にお茶やっちゃいそうだ。
だからもしかすると、久秀が死んだからこそ、茶湯御政道は開始できたのかもしれないぜ?