茶道太平記8 武将と茶湯

この章では茶湯の地方普及として、薩摩の上井覚兼を例に挙げている。

彼は、天正年間を通じて、そうとうたんねんに日記をつけている。
その全部が今日のこっていないのが残念であるが、さいわいに天正十年十一月から、十四年九月までの、くわしいものがつたわっている。

秀吉が天下を取ったあたりから、秀吉が九州に侵攻してくるまでの間の日記ということになる。

で、その茶の様子がいろいろ語られているのだが、

この間、宇治の人の藤村勘丞が、義久に茶進上に下向した途中、その来訪をうけて、勘丞の手前で、宇治茶を賞味し、幸若弥左衛門父子をよんで、酒宴とともに宇治茶をたしなみ、翌日の大酒をさますために、茶湯をさせたり、
(中略)
伊集院忠棟から、忠棟の家臣四木某が、上洛して堺の茶湯の法式を習って帰ったので、披露するからとまねかれて、
(中略)
京都から帰った泉長坊をまねいて、

結構、京や堺との連絡があるのが面白い。

全体的な傾向としては:

覚兼は酒を好んだ。ほとんど連日酒宴ということもあり、大酒することもしきりであった。
京船が日向の港につくと、京都や堺の名酒をとりよせた。
そして、酒とともにかならず茶会尺が行われた。
それははなはだ賑やかな、集団的な茶会であって、素朴な、民衆的な茶寄合的な面影をたもつものであった。
閑寂な小宇宙の、茶室の茶ではなくして、すこぶる開放的な性格を、もつものであったようである。
(中略)
彼の茶は、古市澄胤などの茶の世界に、ちかかったものかもしれない。

茶寄合や淋汗茶会の流れを汲んでそう、ということになるのか。


残っている日記の時期からして、堺などとの交流はあるものの、秀吉プロデュースである利休の茶の湯の変革には遭遇していない、と考えられる。

ということは、利休以前の堺の茶の湯の気風を伝えていそうなので、やっぱり天正十年くらいまで、堺の茶の湯も茶寄合や淋汗茶会みたいなものが主流だったのかもしれない。