茶道太平記9 錬金術時代

秀吉のお話。

本能寺の天正十年から、天下統一の同十八年までが、秀吉にとって、もっとも上昇期の華々しい期間っであったように、利休にとっても、この時期は、彼が歴史の舞台に、大きく、その巨影をうつしたときであった。
利休は、信長の茶頭として五百石をあたえられた。しかしその茶人としての社会的地位は、あまりパッとしたものではなかった。
(中略)
また、堺の商人としての経済的地位においても、利休は、津田、今井には、とうていおよばぬものがあったようである。
(中略)
ところが、秀吉の台頭とともに、利休の世俗的地位は、津田・今井をしのいで、にわかに上昇した。

利休の台頭が秀吉の天下取りと連動していること、利休が政治的な存在である、ということはいまではごく普通に受け入れられていると思う。
しかし、戦前くらいの茶書では、利休は紹鴎の正統を継いだような扱いで、こういう俗な存在ではなかったと思う。

わたしは、こういう論旨で本がかかれはじめたのはせいぜい昭和50年以降、という印象があったので、昭和30年代は相当早いように思える。

しかしながら:

秀吉の茶湯への執心は、そうとうなものであった。
秀吉を希代の大数寄者として、ほめたたえる人さえある。
しかし多くの人がみとめるように、黄金の茶室に示される秀吉の茶事は、まさに俗臭紛紛たる点では、けだしこれ以上のものはあるまい。
(中略)
庶民の出身である彼には、能楽よりも、この新しい庶民的いぶきの濃い芸能である茶湯に、大いにひかれたであろう。この新しい芸能をつかむことによって、彼は文化の世界への、政治的君臨をこころみたともいえよう。
茶道の大成地=堺の、茶湯の最高峯=利休を、茶頭として頤使することによって、彼はその支配のおよばなかった文化の世界においても、優越感をみたそうとしたのであった。

秀吉の茶は俗悪で、利休を使役することで優越感を満たそうとした…的な考え方はまだまだ古いかな。

秀吉が利休にそうさせたなら、それは秀吉の茶なのだ…というところへはまだ行き着いていなかったみたいだ。