茶道太平記10 利休の切腹
そして利休の、切腹の話。
この時の利休の辞世の偈は、
人生七十、
(中略)
だがこの遺偈の文は、すでに古く、中国の蜀の人の幹利休がつくったもので、利休はこの文を、まえもって用意しておいたのだともいわれる。
まだ近重物安の話が信じられていたことがわかる。
利休が、その死にのぞんで、生死を超越しきれぬ、何者かをもっていたと推しはかられることは、その賜死の理由に、ただならぬ特異なものがあったことを、おもわせる。
そこで、利休の人物や行動のどこが、秀吉の気にさわったかを、すこし考えてみよう。
むかしからそれについては、いろいろな説が流布されているが、とにかくはっきりしているのは、二つの点である。
一つは、茶道具を高値に売って、不正をはたらいたということである。
(中略)
利休は、いうまでもなく堺の町人である。
(中略)
商人がもうけるなといわれたら、これは商人をやめろということで、商人である利休にとって、はなはだ心外であり不服であったろう。
(中略)
こう考えると、茶道具高値売買のことだけで、死に値いしたとは、はなはだ不合理なことといえよう。
(中略)
利休の罪とされた第二の点は、さきの春豊の日記などにみえる、大徳寺山門木像のことである。
(中略)
しかしそれにしても、この木像だけで利休を殺すには、いささか理由が薄弱のようである。
要するに、処罰しようとおもったら、理由は後からなんとでもつけられる。
秀吉を怒らせるなにか深い理由があって、茶道具のことも、木像のことも、その怒りを表面化する、一つの口実にされたものであろう。
本書に特に新発見はない。…まぁあたりまえなんだけど。だって今だって新発見はないんだし。
ただ、思ったのは、利休はやっぱ金のことで殺されたんじゃないのかなー、ということ。
この一節。
商人がもうけるなといわれたら、これは商人をやめろということで、商人である利休にとって、はなはだ心外であり不服であったろう。
秀吉から禄を貰っていた=一応士分であった利休だからこそ、禄以外の利殖が咎められ、武士の死に方である「切腹」が強要されたんじゃないかなー。