茶道太平記11 大名茶の完成

それから織部の話。

征明の役に、捕らわれて来朝して、朝鮮の姜ハンの著した「看羊録」に
「堀田(古田)織部なるものあり、毎年天下一と称す、
(中略)
もし織部の称賞といへば、すなわち更に価を論ぜず」
(中略)
右の記事は、織部が、同時代人によっても、「天下一」と目されていることを、示すものである。

茶の湯の美意識を認めなかった朝鮮の資料にも載ってしまうのだから、当時の織部の影響力が偲ばれる。
あと「天下一」「日本一」ってこの時代の流行語に近いよね。

ところで、織部の茶をめぐって、つぎの二つの問題とすべき点がある。
一つは、一万石の小大名とはいえ、彼はれっきとした封建的君主である。
この封建的権威の最上層の一員である彼が、封建的秩序に反逆する、人間性の自覚、個性への主張をみとめたことである。
二つは、大阪夏の陣において、彼が大阪方に内通し、反乱をくわでていたというかどで、家康によって処刑されたことである。

織部が豊臣家に味方する明確な理由はまったくないんだけれども、家臣木村宗喜の反乱?に連座させられた可能性は否めない。
でも、「上を上とも思わず/天下一とか呼ばれて喜んでる様な、桃山の残照の様な人物は、これからの地味な徳川の治世には不要」とか思われたって方が、タイミング的にも美しいので信じたくはある。

しかしながら、織部の茶湯について、はっきりいえることは、彼が、いわゆる大名茶の形成者であったことである。
(中略)
もう一つの点は、彼によって、禅風的性格を背景とした中世の茶湯への訣別が、完全に行われ、桃山いらい芽ばえていた、非宗教的な、世俗的な、華やかな色調のくわえられた、近世的茶湯への転換が、決定づけられたことである。この二つの課題は、その弟子であり、三代将軍家光の茶道師範となった、小堀遠州によってうけつがれた。

織部の所持道具からは上記の点はよくわからない。織部の道具は、失われたものもあるだろうし、後世に付け加えられたものもあるだろうから雑音が多すぎるからだ。

でも織部の茶室からはわからんでもない。

紹鴎から利休に至る頃、市中の隠としていろんな世間のしがらみから隔絶した空間を作っていたのに、織部の茶室には身分制がもちこまれているもんな。