茶道太平記12 封建的安定と茶道

遠州と石州の話。

遠州の茶道観を端的に示すものは、いわゆる「書捨ての文」のはじめにある、「茶道とて外にはなく、君父に忠孝をなし(略)云々の一文である。
大名茶への旋回のうちにも、織部がギリギリの線で守ってきたところの、人間的自覚、個性的主張は、まったく影をひそめ、ここには、人間喪失と、類型化、規範化があらわれてくる。
(中略)
しかしここでは、遠州の方向が、よいかわるいかという価値判断をしているのではない。
幕府官僚としての遠州は、ついに時代の子であった、というだけのことである。

ひどい言われ様だが、実にその通りだと思う。
ちなみに「書捨ての文」は、君父が天皇にすりかわって同様の文が戦前の茶書に頻出していた。
そういう意味では敗戦まで江戸初期の茶の湯が続いていたと言えなくもない。

遠州のあとをうけて、四代将軍家綱の師範として、茶道の象徴的地位についた、片桐石州と、遠州との違いは、織部遠州のそれにくらべたら、はるかに僅少である。
(中略)
石州の茶道を、一言にしていえば、上は将軍・大名から、下は旗本・武士にいたるまで、それぞれ分に応じた茶の湯を行えという、きわめて常識的なものであった。
(中略)
従って石州が「わび」といっても、利休において完成した、「中世的なわび」への回帰ではなく、そのころ幕府が施政の主眼としていた、日に日に上昇する武士の消費生活を、防止しようとする、奢侈抑制政策や、封建的秩序の動揺をふせぐための、「事勿れ主義」政策に、むしろ対応するものであったのである。

「わーうっとおしいなぁ」と思わなくもないけど「それぞれの分限にあった茶の湯」なんて、今でも目指されている世界であって、むしろ笑えない。
利休が生きていたらそういうのをヨシとしないだろうしね。