茶道太平記13 上方文化と茶湯

さてここまで武士の茶を扱って来たが、ここで町民のお茶に話は移る。

町民がお茶をできる、という背景を、著者はきちんと描く。

農民の生活も、その性格はちがうが、武士とおなじように、はなはだ窮屈なものであった。
しかし農民の孜々とした働きによって、農工生産力は、すばらしい発展を示した。
十七世紀のはじめの、慶長ごろに、耕地百五十万町歩、一千八百万石であったものが、その世紀のおわりの、元禄ごろには、約二倍近いものに上昇している。
(中略)
農工生産力の発展を前提とし、武士が城下町に集中して、尨大な消費的人口を形成したこと、水陸交通が全国的にひらかれたこと、泰平の世とともに、生活水準の全般的上昇があらわれたことなどの理由によって、世はまさに貨幣経済の時代に転換した。
そしてこの商品貨幣の流れに棹さし、これを支配して、天下の富を一手ににぎりはじめたのが、町人階級であった。
(中略)
とくに、茶湯は、道具あつめなどの趣味が、金力とふかいかかわりをもつものであるだけに、富裕な町人の、関心の的となりやすいものであった。

ただ、室町期に茶の湯をリードしてきた豪商たちと、江戸の豪商達。この二つがどう違うと考えているのか、著者に聞いてみたいものではある。

津田家が断絶し、今井家が武士に変化していった姿をむしろ描くべきではなかったろうか。

ところで宗旦は、町人的とはいうものの、けっして下層町人の世界にあったのではない。彼をとりまく世界は、実に富裕な上層町人のそれであった。
宗旦は、美福門院にまねかれて宮廷へ出入りし、あるいは智忠親王の知遇をうけ、
(中略)
宗旦の呼吸した場所が、まったくの町人茶の世界であったというのではない。しかし、大名茶の支配する世界に対して、やがて来る町人茶の展開への方向づけが、行われたのはたしかである。
宗旦の子の代にいたって、いわゆる三千家の流れがひらかれた。
(中略)
宗旦の後継者たちの、権勢への出仕がつづいた。

宗旦の茶道史上の価値は、宗旦の茶そのものでなく、子や弟子の後継者を全国に展開したことであり、本人別段町人の低層でくすぶっていたわけではない。

元伯宗旦文書が出たのは昭和46年。その12年前に「乞食宗旦」をこういう風に見れていた人がいるというのは驚異的だなぁ。