茶道太平記14 小堀家の没落

このあと不昧とか直弼の話になるけど、通り一遍の話だからスルー。

最後にいまいちわかりにくかった「伏見騒動」が解説されていたのでそちらを。
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20081028

遠州流の小堀政方のページでは

その後、伏見奉行となるが、在任中の天明5年(1785)、家臣に不調法の事があって幕府に訴えられ、同6年一度許されたが、同8年その責任を負わされて、遠州以来の領地を没収せられ、周防と改めて小田原に退身した。

とあるが、本書では詳しくかかれている。

ここで、天明の大凶作のさなかにおける、茶道の名門小堀氏の末路をしるしておこう。
遠州から五代目の、和泉守政方は、安永七年、伏見奉行となったが、「伏見民政誌」によると
「翌年ヨリ驕奢ニ長ジ、美麗ヲ好ミ、他人ノ婦女ヲ略奪シ、無辜ノ民ヲ殺戮ス、淫酌ノ増長、苛政ノ肆霊至ラザルナシ、其麗奢遂ニ螺鈿楼ヲ建設スルニ及ビ、在勤中市民ヨリ苛酷ノ徴収金実ニ十二万三千両ニ達セリト云フ、茲ニ義民文殊久助、丸屋伝兵衛、(略)同志ト謀リ、千辛万苦ヲ凌ギ、密ニ謀リ立テ、江戸将軍家ニ歎訴ス、(略)」

全然「家臣の不調法」じゃねー。

この事件から数年たってかかれた、天明伏見義民伝の実録「雨中之鑵子」に、つぎのようなはなしがある。
(略)
「その頃およしの方御好みによって、京都醒ヶ井の絵師西川某といへるを呼下し、大衝立並に湯殿の四方に画を書せらる。その浮世絵、目もあてられぬ図を見て楽しまる」

殺しに犯しと紂王だか董卓だかわからない所業ではあるが、螺鈿の建物を作るとか淫らな絵を飾って楽しむってのが微妙に綺麗さび風の世界なのがなんか笑える。

小堀家の所領は、近江の浅井郡小室の一万余で、伏見へは奉行の役職として、赴任していただけであって、幕府の天領でもある伏見町人への私の課役は、いわば背任横領のような性質をもつものである。

安永7年から天明5年までの8年で、12万両の横領。
先祖の遠州が1万両の横領で死にかかったのを考えたら、なかなかに器が大きいといえなくもない。

それで隠居程度で済んだのだから、田沼の時代で世間が乱脈に慣れきったって感じがするね。