水戸茶道史考

伊豆山善太郎/いばらぎタイムズ/1988年。

水戸の茶の湯について書いた本。

水戸の茶の湯、と言われても「高橋箒庵の故郷だよなぁ」ぐらいしか思わない。
あんまり茶どころというイメージはない。

「じゃぁ光圀の話メインかなぁ」と思うが、大体あってる。
でもそうでない話もある。

話は佐竹義宣から始まる。

徳川氏が水戸城に入る前の城主・佐竹義宣は、千利休の高弟・古田織部に師事した。
(中略)
大阪冬の陣の折には、織部は島田重次らと共に義宣の陣所を尋ね、竹藪の陰で兜をぬいで積もる物語をし、茶をたててのんだ。終って織部茶杓になる竹を物色したが、織部の禿頭が盾の陰から日に輝いたので、城中から鉄砲を放たれ、玉が頭をかすめ去った。
翌日、家康から見舞の薬が届いたりして大評判になった。これも、つまるところは義宣と織部の親交を証する逸話である。

有名な話ではある。

ところで義宣は天正十九年に「南方三十三館の謀殺」という事件を起こしている。
南方三十三館と呼ばれるいまいち従わない豪族多数を宴席に招いておいて殺したのである。
この時期既に豊臣の下にはついているが、織部の弟子だったかは不明。
織部は「亭主が客を殺してはいけないよ」と教えてくれただろうか?

佐竹侯所持の名物茶器としては唐物で、銘「佐竹」の文琳茶入(神戸・田村市郎氏蔵)が有名であるが

なぜかSTK36こと佐竹三十六歌仙絵巻の記載が無い。
秋田に転封後の入手と考えているのだろうか?


本章は以下の文で終っている。

ともかく義宣は織部流の茶の志深き人であったが、現在その流風を偲ぶべき何物もない。

深い一文である。


…義宣には伝説がある。

秋田に転封される時、水戸の美人を全部秋田に連れていったので秋田に美人が多く/水戸にブスが多いという伝説である。美人運ぶなら茶室や茶道具が残るわけもない。

この一文には水戸の男達の深い怒りが込められているのかもしれない。