水戸茶道史考2 藩祖頼房と織田有楽斎

光圀の父、頼房の話。

頼房がどれほど茶に熱心であったか不明であるが、江戸城内の茶事にしばしば客となり、圓悟や虚堂の墨蹟や名物茶入・投頭巾などに接していたことは、記録に残っている。

兄であり将軍である秀忠が、織部の弟子の茶執心だから、頼房が興味無くともつき合わされる、ということか。難儀な事である。

でも頼房の話自体はこれだけ。
あとは頼房の時代の水戸のお茶。

頼房に仕えた軍師・中川源太夫為範は、織田有楽斎の甥にあたり、有楽に茶を学び、有楽流の茶書『茶湯手引草』上下二巻を著わした。序文には、当時、茶道が堕落し来たり、流派にこだわり、道具に凝りなどして本来を誤るを正そうとして、有楽斎の書き残したものを本にして、この書を著したという旨が記されている。
水戸藩士の刊行した唯一の茶書として珍重されるべきであろう。
初版発行の年次は文政六年(略)

茶湯手引草の現物にあたらずに言うのはなんだが:

  1. 文政6年は1823年。1600年代前半〜中盤の人物の著述がどうして100年以上後に出たのか
  2. 茶道の堕落や流派のこだわりなどその頃あったろうか。

南坊録より100年以上後の本である。普通に考えたら偽書だよねぇ。

その後、水戸藩における有楽流には、織田貞置門の藤田将監と、片岡勘介門の野田道意、名は政徳、号は知足庵という人物があるが、詳細は不明である。

水戸は有楽流が強かったのか。これは意外。
今もあるのかな?と思って調べると、あるみたいだねぇ。