水戸茶道史考4 西山樵夫名で序文を書く

隠居後の光圀の話。

一見、樵家の如き山荘に住んだ義公は、西山樵夫の名を以て珍しくも山田宗偏の『茶道要録』に序文を物し、それが自筆刻で掲載されている。
しかもそれは発行書肆の依頼によったものであった。
書肆は京都出雲寺和泉椽と丸屋源兵衛である。時は元禄辛未すなわち元禄四年(一六九一で西山荘に隠れたその年である。

ええ?そんな話あるの?!

この序文の漢文を假名交りに改めてみると次の通りである。
『一日書林某来たりて余に謂ひて曰く』

京都の出版人が、水戸まで来て、御三家の隠居に会うっていう設定に無理がある気が。
この部分は「設定」としても、そもそもまったくツテがないと思うのだが…。

宗偏流家元・山田宗囲氏も義公説をとる。但し筆跡鑑定を厳密に行う必要は、筆者も感じてはいる。

なんだよ全然定説でもなんでもないんじゃねーの。
著者と山田宗囲がそういって盛り上がってただけじゃんか。