水戸茶道史考5 尾張公も驚く光圀公の節倹

節倹を重んじた義公であるが、後楽園は頼房公が経営途中で没したので完成はしたものの、他は極力用を節したらしく、尾張公が小石川の水戸邸を見て、その質素なのに驚いたという話がある。

まぁ貴顕の言うレベルの「節倹」がどんなものかという気もしますが。

そもそも水戸家は幕府の親藩で御三家の一であるが、石高はとび離れて一番少なかった。
(中略)
ともかく乏しい祿を割いて大日本史編纂に莫大な支出を続けたのだから、水戸藩の楽でなかったことは当然である。
(中略)
茶が好きでありながら見るべき茶席など残さなかった所以であろう。

参勤交替はない(というか原則江戸詰めでほとんど水戸にいない)水戸藩ではあるものの、そもそもの石高が低すぎて格式を保つのも大変だったろう。

そして後楽園の造営やさらに大日本史などの(無駄な)大事業で経営は悪化。
当然後代への借金も残してそうだから、光圀が歴代でもっとも有名なのもむべなるかな、であろうか。

でもなー。
本書では光圀を茶趣味って事でまとめてるけど、後楽園見ると、煎茶文人趣味の人のような気がしてならないなー。