水戸茶道史考6 茶の達人 第六代文公

文公(一七五一〜一八〇五)は、水戸藩主中とくに茶の達人であったといわれる。
公は石州流の野村休盛に茶を學んで奥儀を極め、茶道頭には同門の宮田文碩を用いた。
(中略)
文公は寛政九年十一月朔日に世子の御傳大場弥衛門に茶の湯の心得を書き与えた。

世子治紀はその時24歳だったので、傅役に言わんで直接言えばいいのに、と思うのだが、それは下々の考えかもしれない。

曰く「茶事の要とする所は朋友相伴いて信実を以て相交り奢を禁じ質素を本とすること。第一のことなるべし。
然るに泰平久しくしては自然に奢におもむき器物の念を生じ、或は茶事終わりて後座には遊興を催し、無益の費用を費し、珍器を集めんことに心をかたむく類、尤賎むべきことに非ずや。
一體茶事参会は悪きことにあらねども、前に云如く器物の念を生ずると、茶事に託し後座に遊興を催し、長夜の宴などにも至りては、甚茶意の本意を失へることヽ云べし」

1797年の「大名の」茶の湯は「後座に遊興」「珍器を求める」風だった事がわかるが、まぁ大名としては当り前のような気がしないでもない。
戒め通り「後座に遊興なし」「ありもの道具でお茶」にしたら、大名としてはどうなんだろうか?

そう考えると、文公徳川治保は、大名らしからぬ侘数寄を志向した、ある意味異常な茶好きだった考えることができるかもしれない。

公は享和三年十月十九日、江戸千家流の祖川上不白を後楽園琴畫亭に召して眞の臺子を命じた。

1803年、不白の晩年には台子の神格化が進んでいたことがわかる…って、不白は真台子の伝授に七十三両も払ってたんだから、神格化されていて当然の時期か。

「不白今年八十五にして、眞の臺子は唯両度也。
今日と先年上野御門主(門跡寺院生。寛永寺住職)召玉ふときのみなりと。
此とき掛軸は大燈國師の書以下茶器皆絶世の名器也。
所謂、豊太閤遺愛の重器、新田肩衝の茶入を出して観せ玉ふ。
不白嘆賞して止まざりき」と『水戸紀年』にある。

不白が真台子をした機会が二回しかない、というのはどうだろうと思うが、「不白嘆賞して止まざりき」はそらそうよ、としか思えない。

新田肩衝は、後楽園にあった。
家臣との茶事に使う様なものではないから、当然か。
新田肩衝は、大政奉還まで水戸に行ったことなかったかもね。