利休道歌に学ぶ20 照明

夜咄/暁はやったことないので参考になります。

暁は数寄屋のうちも行灯に夜会などには短檠を置け
(略)
夜咄は短檠を置いて、茶事の間中、短檠はずっと置いたままです。ところが、暁茶事は途中で灯を消しますので、短檠を置くのは危険を伴います。
(略)

短檠と行灯の違いなんて、ランプシェードが付いてるかどうか、だけなんだから、危険度に違いはない筈。
というか、可燃物で覆われている分、行灯の方が危なそう。
短檠は油を差し直し易いが、行灯はそうでもない、という方が大きいのではないだろうか?

燈火に油をつがば多くつげ客にあかざる心得と知れ
(略)
油がなくなってブツブツと灯芯がいうようになったら、お客さまは気が気でなくていづらくなります。
(略)

これは異論なし。

ともしびに陰と陽との二つありあかつき陰によひは陽なり

先ほども言いましたように、お茶で使う照明具に行灯と短檠などがありますが、行灯は陰、短檠は陽の灯火となります。それで、暁茶事は行灯、夜咄の茶事は短檠を用いる約束があります。
(略)

「暁は」と同じ内容ですが、「行灯は陰、短檠は陽」って理屈が全くわかりませんな。

いにしへは夜会などには床の内掛物花はなしとこそきけ

(略)
その夜咄のときは結局灯火だけで席中を見るわけですから、「床の内掛物花はなし」というのは、掛物や花は見えないということです。
見えないから、掛物や花はなくていいというような意味です。
(略)

これ、内容は同意しますが、「いにしへは」のいにしえって、いつから見たいつなんでしょうね?

利休が書いた…という設定だったら、いにしえにも限度があるんですが。