茶の世界史4 不正茶

ちょっと前、日本の茶輸出は自らが行った不正茶(着色や混ぜ物)の為に亡びたという話を載せた。
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20140113

その詳細がここには書かれている。

すなわち茶の大部分は、横浜や神戸の外商をつうじて売られていたのである。
外商は売込商から日本各地の茶を買い集め、居留地に設けた加工場、いわゆる「お茶場」で、市場別に再製加工してこれを輸出した。
(略)
作業場の内部は数百の炉に火が入っているために熱気でみたされ、そのために流れる汗と着色に使われる染料とで、女工たちの顔は青光りになった、中国人の監督が棍棒をにぎって工場内を歩きまわり、女工たちは一瞬とても休むことは許されなかった。
(略)
こうしたお茶場は、明治三十年前後まで三十五年ないし四十年の長きにわたって存続した。
日本はインドのような植民地にはならなかったが、茶の輸出といっても、外商主導のいわば半植民地的隷属状態にあったのである。

外資主導で作られたインチキ茶が日本の輸出茶の品質を下げてたんじゃねーか…。

商業基盤の弱かった日本、というのはまさに隔世の感ではあるが…お茶に関していまだその影響下にあるというのは不思議なことだ。