茶会記の風景2 今井宗久

冒頭は今井宗久の紹介と、その茶会記について。

宗久の茶会記は、現在、静嘉堂文庫に蔵されるものが、今のところ現存する唯一のものとみなしてよいだろう。
しかし、宗久の茶会記は、宗及のそれとは異なり、量的にもはるかに貧弱であるし、なによりも江戸時代に入ってから編纂されたという致命的な欠陥がある。
(略)
このうち、日付が違ったり、内容がやや異なったりはするものの、二十四回が『天王寺屋会記』の自・他会記と一致しており、『宗湛日記』とも二回だけであるが一致している。
また宗及の名があっても『天王寺屋会記』には収録されていない茶会をも『宗久日記』が記録しているので、『宗久日記』が編纂されたという欠点はもつものの、必ずしも資料として否定できないことを示している。

普通に考えると、上の条件から考えて今井宗久茶湯日記は信憑性が低い、と言わなきゃいけないのだが、谷やんはあくまでポジティブである。

信長は当初和解案を両者に示したらしいが、なにを不服としてか宗瓦がそれに異義を申し立てたので、例によってカンシャクを破裂させたのであろう、「すべては宗久が一人で相続せよ」との採決を永禄十一年(一五六八)十二月十六日に信長は下した。ただし「今井馳走あるべし」との条件付きではあったが(秀吉等連判状)。

今井宗久武野紹鴎の娘婿であり、紹鴎の遺産を宗瓦から横領してしまった、というのが一般的な宗久のイメージではないだろうか?

信長の矢銭要求の一件もようやく落ち着いた永禄十二年(一五六九)閏五月十九日、宗瓦は津田宗及一人を招いて茶会を催した(『宗及他会記』)。
この時宗瓦が用いた道具の多くは「開き」で「紹鴎之也」であり、しかも「一両日已前に宗久より来候」ものであった。
すなわち、宗久が“預っていた”紹鴎遺愛の茶具を宗瓦にもどし、宗瓦はさっそく宗及に報告を兼ねて、もどされた茶具を中心に茶会を催したのである。

これ読むと宗久は宗瓦に茶道具を返していたみたいなんだが…。
宗及他会記を読んでもそう読めないのだが…読んでる本が違うんじゃろうか?

翌永禄十三年三月十八日、宗久は宗及・宗瓦と道巴を招いて茶会を催している。この茶会が宗及と宗瓦の和睦茶会とされているが(青柳勝氏「武野宗瓦考」)、私は『宗久日記』が載せている永禄十二年正月三日に、宗久が利休・宗及・宗瓦を自邸へ招いた茶会こそ、利休と宗及の立会いのもとに宗久と宗瓦の手打ち式がもたれた会ではないかと考えたい。

永禄の頃の利休が武野家の内紛に参加しなきゃいけない理由が見付からない。

でもまぁ、茶会に招けるという事は和解したということで、なんらかの道具返還がなければそれも無理…という逆算は理解できる。

でも大阪冬の陣今井宗薫が捕まって伝来茶器を失った、という話もあるので、全部返したわけではなさそうだ。