茶会記の風景3 山上宗二

天正十二年(一五八四)五月十二日、津田宗及は久方ぶりに山上宗二の茶会に出向いた。
相客は宗無ひとり。宗及はこのとき、宗二の茶具についていっさい書き留めなかった。
宗及が茶具についてなにも書かないのは珍しくないが「浪人已後也」つまり浪人してからのことだと注記しているのが注目される。
(略)
だがこの日の茶会には、別の思惑が宗及と宗無にあった。
それは宗二を説得して秀吉に詫びを入れさせ、茶堂の一人に復帰を許してもらうよう取り計らうことである。

山上宗二の項は、「天王寺屋会記」や「松屋会記/茶道四祖伝書」に出てくる山上宗二の茶会記や、山上宗二記の奥書を通じて、山上宗二の浪人から北条家への寄寓…そして死までの足取りを辿る、という形式である。

しかしながらそれは、いままで言われて来た宗二の足跡を確認するだけにすぎない。

  1. 商人であるさつま屋宗二にとって、秀吉の茶堂である必要はあったのか?
  2. 取りなしの相談茶会に利休が参加せず、宗及/宗無が参加した理由はなにか?

この辺の考察がまったく無い、というのはちょっと問題ではないだろうか?
著者は資料を読み解く事に満足し、そこで思考停止していないだろうか?