茶会記の風景4 神屋宗湛
天正十五年(一五八七)正月二日、神屋宗湛は堺の天王寺屋道叱に招かれて、相客の大和屋立佐ともども初春の茶の湯を楽しんでいた。
濃茶を啜りながら歓談していたとき、大坂にいる津田宗及からの急使が届いた。
―明日大坂城で豊臣秀吉が大名衆に茶を振る舞う際、宗湛を同席させよとの指示があったから、至急土産物を用意して大坂へ出て来られたい―と宗及は書き、宗湛が乗るための馬まで用意されていた。
宗湛日記は前年10月、宗湛が大坂へ出発するところから始まり、この日までに堺および京都でさまざまな茶人に供応を受けている。
更に、この日の後にも同じく供応を受け続けている。
宗湛日記の描く秀吉は、あまりにも魅力的なのだが、「茶会記の相客からいろいろ考察する」本書ならば、そっちを語るよりは前後の堺茶人との交流を考察してほしかった。
ところでこの急使、よく考えると大坂城から堺へやってきた。つまりたかだか14kmくらいを移動して来ただけなんだよね。
大坂城の宗及屋敷に大至急移動する必要、あったんだろうか?
あと山上宗二のとりなしも宗及の手配、だとしたら豊臣政権の商務担当は宗及…という結論にならないだろうか?