茶会記の風景7 古田織部

奈良吉野の蔵王堂から土産物屋が軒を並べる細い通りを上ノ千本に向かっていくと、途中に竹林院群芳園という旅館がある。

…と、織部の利休亡魂茶会から話は始まるが、まぁこれは掴みであんまり本題関係ない。


松屋会記や天王寺屋会記にある織部の会記を集計して著者は語る。

次に織部が茶会で用いた茶具類を見てとくに注目されるのは、いわゆる“唐物”や“高麗物”がきわめて少ないことである。
織部ほどの立場にあれば、希望すればそこそこの唐物は手に入れることはできたであろうし、一種類の茶会記だけでなく、五種類以上の、記録された時期も、記録した人物も異なる茶会記から得られた結果であるから、たまたまある時期に、特別の意図をもって織部が唐物を用いなかったとは考えにくく、織部の“唐物離れ”の考え方が強く反映されたとみてよいだろう。

さまざまな会記から織部の茶会を集計すると、そうなるかもしれない。

でも、織部が活躍した慶長の頃は、他の茶人だって茶碗と水指は国焼な事が多いし、瀬戸茶入も活躍しまくっていた時代。

そもそも唐物はあんまり流行ってなかったのかもしんないぜ?
同時代の他の茶人で再調査したら、結果変わるかもよ。