茶会記の風景8 細川三斎

大徳寺第一七〇世清巌宗渭は、
(略)
奈良の守顕を連れて、折しも領地八代で病気療養中の三斎を見舞っている。
この年七十二歳になった三斎は、(略)病気とはいってもそれほどのことはなかったのであろう。
(略)
二人の到着を待ちかねたように茶会を催した三斎は、金渡墨蹟と柑子口の花入れで床を飾り二人を迎えた。
炉の横には眼が悪くて大儀だからとて、袋棚が置かれてそこに茶碗や茶入が飾られていた。
(略)
低い方の袋棚の上の棚には、茶巾と仕覆にくるんだ弦壷(弦付茶入)を仕込んだ三島茶碗が置かれ、右側の一段高くなった棚板には柄杓が置かれていた。
その下の吹き抜け部分には、アラ焼水指、すなわち今焼の水指が置かれ、水指の蓋は点前が始まると棚の左側にたてかけられた。

著者の、茶会記からこういう描写ができる能力はすばらしい。

建水・引切・炭斗・片口などは運び出されたが、立居が難儀だから茶頭が三斎の手の届くところまで運んだのであろう。
炭点前の際、炉中を改めるとき、「ニジル事少モセズ」と久重が記しているが、これは年老いて足が不自由なためではなく、もともとにじらなかったものを織部が釜を持ってにじることを始めて、それが広まったまでのことという三斎の持論によるものであろう。

棚にいろいろ置いて、動かなくていいようにお茶をする年寄りの侘び茶人のお茶が実に生き生き描かれているじゃないか。

…でも山ノ井茶入を使わなかった理由がわかんねーな。

織部遠州のように三斎は、茶の湯の名人・宗匠としての評価を望むことは考えなかった。
(略)
したがって特に茶の湯に創意工夫を加えて三斎色を出す必要もなく、利休が教えてくれたそのままに点前をしていたのが織部と対比されて、利休茶湯を遵守したと評価されるようになったと思われる。
三斎自身は、利休茶湯を守るとの使命感に萌えていたわけでもなさそうで、かなり冷めた目で利休を見ていたフシもある。
(略)
茶人としての三斎を特異な存在にし、わかりにくくさせている所以である。

面白い考察である。

三斎が愛の多過ぎる/ヤンデレ系の人物としても認識されている事も一因ではないだろうか?