茶会記の風景10 小堀遠州

小堀遠州の茶会記は二十数種伝えられ、それらに記された茶会の数は延べにして千会をゆうに超える。
しかしながら同系の写本も多く、同一の茶会を数種の茶会記が重複して載せていることもしばしばであるから、実際には四百五十会前後になると考えられる。

と、茶会記を統計的に見るには恰好の対象でありそうな遠州であるが、茶会記の記載の粒度の違いや信頼性、重複の確認などの困難さで

その結果、茶会総数にしても道具の使用頻度にしても、読む人によって異なっているというのが現状である。

だそうで、本書でもそういうスタンスでは扱わない。

とはいえ、いまだ解明されていない側面も少なからずあり、その一つに茶具の海外注文の問題がある。

本書は「遠州はどうやって茶具を海外注文していたか?」をテーマにしている。

御本の入手先といえば、対馬の宗家の存在をまず考えるのが妥当であろう。
そこで遠州の茶会に現れた人物のなかからその名を求めてみると『資勝卿記』の寛永十年十月十三日に、日野資勝と宗対馬守義成が遠州の茶会に参席した記録があるのみで、茶会記にはその名を見出せなかった(略)。茶会記に名前がないからといって、付き合いがなかったとは即断できないものの、遠州と宗氏とは、それほど深い付き合いはなかったように見受けられる。
つぎにオランダ船によって長崎へもたらされるルートはどうであろうか。
(略)
家臣を長崎へ派遣したことはつかめなかったので、遠州茶会への列席者から長崎奉行をあたってみたところ、寛永三年に補任された水野河内守から遠州が没した時期の奉行山崎権八郎正信までの十一名の歴代奉行のうち、七人が遠州の茶会に名を連ねていた。
(略)
つぎに長崎代官に目を転ずると、末次平蔵の名も四会にある。
(略)
末次平蔵と遠州の関係を示す資料としていまひとつ、遠州作二重切花入、銘「女郎花」の添状がある。
(略)
遠州の茶会記には豪商として名高い茶屋四郎次郎の名が二十会近くにあり、それらはいずれも三代の清次と考えられる。
(略)
私は茶屋四郎次郎遠州の“御本”注文になんらかのかたちで関与していたのではないかとも考えており、
(略)

対馬と長崎との関係を茶会記で読み解こうとしているが、

  1. 茶会記の人間関係で商業ルートを読み解こうというのに無理がある。
  2. わりとまっとうなルートを想定し過ぎではないか?

というのが問題だろう。

遠州の死ぬ6年前まで、オランダ商館は長崎でなく平戸にあったんだから、松浦氏の関与も想定した方が自然だし、もっと他の密貿易しているとこに頼んでいる可能性も有る。その場合の関係はそもそも茶会記に記載されるような話ではないだろう。