茶会記の風景11 鳳林承章

鳳林承章とはあまりなじみのない名前かもしれないが、江戸時代初期の文化を研究しようとする人にとっては、避けて通ることのできない重要な人物である。
というのは、彼は約三十年にわたあって克明な日記を書き続け、そこには宮中・寺院・武家・町人の姿が生き生きと描写され、登場する人物も京都・畿内はもとより、江戸・関東・中国・九州、はては琉球までまたがっているのであるから、この日記を読まずして近世初頭の文化を語ることはできないといっても過言ではなかろう。
その日記を『隔冥*1記』という。

隔冥記は読んだこと無いなー。
多分に江戸初期の茶の湯に興味がわかないから…なのかも。
江戸の茶は室町の茶と桃山の茶がどう廃れて現代風になっていったか…の歴史ですからねぇ。

まず寛永十五年(一六三八)八月二日の朝、承章はかねてより懇意にしている河内狭山藩主北条久太郎氏宗を招いた。
(略)
この日は軽い朝食のあと茶屋において「風炉之茶湯」が点てられた。
(略)
茶のあと酒が出され、飛び入りで参加したものか、これも承章とは懇意な野洲九郎右衛門が現れて“歌謡”をうなり出していっぺんに座が賑やいだ。
やがて宇治の長井貞甫から届けられた「新極茶」を味わったあと、一同は築山に登り、持参した食籠をひろげて再び酒宴となったが、ここではあまり酒を飲まずに、金閣に登ったり、池に舟を浮かべて遊んだようだ。
やがて書院に戻り、ここで饂飩や餝飯とともにまたまた酒が出された。
遊び疲れもあってか客人たちが泥酔してしまったので、「晩之茶」はやめにしたと書かれている。

金閣寺臨済宗相国寺派なのに、派手派手な茶やなぁ。金閣だから仕方ないのか?
茶の湯は禅の茶礼で…とか寝言としか思えなくなりますなぁ。

『隔冥記』の茶会記録を通覧して気のつくことは、茶を飲むだけではなく、食事はもちろんのこと、舟遊びや歌舞音曲・碁・十種香・俳諧など、いろいろな遊興とともに楽しんでいることであり、
茶だけのために呼んだり呼ばれたりすることは少なく、とりわけ承章は酒好きであったので、つい度を過ごして“沈酔”してしまうこともしばしばであった。
ところが宗旦に限っては、どうも茶の湯だけのために出向いており、酒も出されなかったらしい。
宗旦の場合は「菓子茶湯」と書かれていることが多く、現在普通におこなわれている茶会─食事もなく菓子と茶だけの─に近いものであったと想像され、あえて酒食を出さなかったように見受けられる。

この頃の茶の湯が供応に傾いていたので、無理して料理出して他人と比較されるのを宗旦が好まなかっただけなんじゃないかな、と思いますな。
身の丈に合わない事をして評価落ちるのを避けたと言うか。

宗旦は収入が安定しない人だしね。
「常にあるレベルの茶の湯ができた」という点で評価するなら「乞食宗旦」と言われてもしかたないんじゃないか。

*1:ほんとは草冠に冥