江岑宗佐茶書6 江岑咄之覚 高山南坊

高山右近の茶について二点。

一、太閤様、南坊へ台子之茶堂御所望被成候、
其時釜蓋ノつまミ、くわんなく候へハ、
南坊フところニくわんを入候て、釜ノ蓋取被申候、
かうしや(巧者)ニて候、手前見事ニ候

秀吉が高山右近に台子を所望した。
釜の蓋につまみが無かったが、右近は懐中して来た鐶を使い、釜の蓋を取った。
テクニシャンである。手前ナイスである。

一、南坊茶之湯時、膳出申候へハ、箸失念被申候、
南坊座敷出候へハ、箸なきと客に被申候へハ、膳を勝手取テ入
別の膳を出シ被申候、尤さうなる作意也

右近が膳に箸を付け忘れたことがあった。
南坊座敷へ出たとき、客にそれを指摘されたので、膳を勝手に戻し、別の膳を出されたそうだ。
ふさわしい作意じゃないか。


内容に異論はない。


「なための釜」もだが、江岑の茶書に、加賀との関係を示すエピソードが散見されるのはなぜだろう?

生年からして江岑が右近の茶の湯を見た筈がない。

こういう記録は、右近について知っていなきゃいけない事、として覚え書きを書いている筈だから、江岑はなんらかの関係を加賀と結んでいた/結ぼうとしていたんじゃなかろうか。

加賀との関連性はむしろ裏千家の仙叟の方にあるべきなんだけど、江岑も加賀での「ありつき」に関与していたんだろうか。

その視点で「宗旦文書」を読むと、宗旦が最初江岑を加賀に仕官させようとしていた様に感じる。
#ついでにいうと宗拙を紀州徳川家に仕官させようとしていた。

表千家が加賀に仕官した為に紀州徳川家に仕官しなかったら、三井家との縁もできずに…みたいな感じで歴史が変わっていたかもしれない。