江岑宗佐茶書9 江岑咄之覚 卒塔婆

一休初祖之円覚大師と有一行物、
珠光表具に而堺ノ寺有を利御覧候て、
墨跡ハ紙之内四方之物面白きと思ひ候ヘハ、
又一行物、高ソトハヲ立テ様ニ面白きと被申候、
其より一行物はやり申候、
大昔は横物すき申候

一休の書いた、「円覚大師」と有る一行物が
珠光の表具で堺の寺にあったのを利休がみて、
墨跡は紙にびっしり四角く書いた奴が面白いと思っていたけど、
一行物も高い卒塔婆みたいで面白いねって言った。
それから一行物が流行った。
大昔は横物が流行っていた。


この話が正しいとすると、一行物を茶道具に仕立てたのは利休じゃなくて珠光ということになるのじゃないだろうか?流行らなかったけど。

松屋会記や天王寺屋会記を読むと、利休が一行物を使っていた形跡は特にない。

むしろ宗旦以降のブームという気がするのだが…。


そもそも伝利休所持の一行物ってあったっけか?