京都美術大観 茶室7 21.妙喜庵待庵

處が明治初年東京に博物館が出來た當時、時の館長町田久成氏は茶席の必要を認め、蜷川式胤翁に命じ京畿の間に於いて由緒ある茶席を購入して東京に廻送せしめん事を囑した。
式胤翁即ち妙喜庵こそ尤も適當なりとして妙喜庵に到つた。
所が寺は無住で誰一人住まず、荒るゝに任せてある。
そこで茶席の内を覗いて見たら、中には一杯の藁が入れてあつて全くの藁小屋となつてゐたのである。
そこで附近の村民に所有者及び管理者を求めたが一向不明であつたので、止むなく奈良の金森の茶席八窓庵を廻送した。と其委細なる日記に記載せられてゐる。

東博の設立は明治5年。
東博にある茶室は興福時の六窓庵。明治10年移設。
八窓庵は同じ興福時から明治25年奈良国立博物館へ移された。

八は六の間違いで、明治初年から作業は開始していた、という風にみればつじつまは合うのかな?


この時期の妙喜庵が無住で荒れ果てていた、というのも面白い。
なぜなら又(玄少)斎が隠居後に妙喜庵に住んでいたからである。

…これって廃寺に浮浪者が住み着いたみたいな話だったのかなー。
裏千家窮乏の頃だもんね。