京都美術大観 茶室12 50.武者小路千家官休庵

変遷
(中略)その後安永の初め火災に會ひ再興したが又續いて天明の大火に會ひて再興、後嘉永の御所燒に三度祝融子に見舞はれ、更に明治十四年丹波國にあつた官休庵の古き席を将來つて再興したが遂に之れは腐朽した為、大正十五年、屋根を除く他はほとんど原型に近き樣、床柱の手斧目の數をも之に合ふ位にして現在の席を建つるに到つた。

3度火災にあった官休庵1854年1881年の27年間、メイン茶室が無かった。
たぶん以心斎、一指斎の頃でゴタゴタしていたせいだろうか。

気になるのは明治に丹波から持ってきた茶室。なぜそんなトコに?という疑問の他、嘉永の火事の前とどれくらい違うんだろう?という疑問もあったり。
あとたかだか70年で朽ち果てちゃう「古い茶室」というのもどうなんだろう?

特徴
素樸な今日庵に比して之れは二疊敷といふものをどの程度に迄複雑さし變化させ得るかと云ふやうな具合に造られてある。
床は最大限まで大きくして附けた。之れによつて、正客の身體の半分はこの中にはいつてくるから、狭い所の割に多人数を通す事が出來得る。
(中略)
床側の板間は出入の時に直に客の正面に表はれる事なく、又時には半東等をも入れる事が可能である。

一畳台目席で、躙りと茶道口は互い違いになっており、茶道口側/つまり躙りから入った奥に床がある。
しかもその床は深く、畳よりも巾が広いので正客が肩口を突っ込ませる事も可能。
で、茶道口もごく小さな板間で曲がり茶道口に接続されており、短い廊下の様な感じになっている。

…。

巨大な床と短い廊下の大きさは一畳以上。つまりこの茶席、実際は三畳以上の面積なんだから、最初っから三畳とか四畳の部屋にしとけばいいのに…。