茶筌の里・高山

なにわリンデンブックス/1997年。

ハードカバー54ページという謎の本。

高山城と茶筌

城の起源は具さでないが、源氏の系統をたどり、鷹山城主第十五代鷹山出羽守の弟『宗砌』は、奈良称名寺出身の珠光と連歌の宗祇を友とし、始めて茶筌を考案し、これをときの帝、後土御門天皇に奉献したところ、天皇は、この妙技に感銘せられ、「高穂」と称讃せられました。
爾来、この地の「鷹山」を今の「高山」と言うようになりました。

宗砌が考案する前の珠光はどんな風に茶を点てていたのだろう?と考えると、宗砌の考案とは茶筅形状の改善がいいトコな気がする。魔改造得意の日本人だしね。

ただ、当時の日本の茶筅形状が現在の茶筅および当時の中国の茶筅とどう連続性をもっているか私には研究できていないので、高山宗砌が茶筅を発明した説には論評しかねる、というのが正直なところ。


ちなみに高山茶筌生産共同組合のページによると「後土御門天皇行幸の折に」になっている。

後土御門天皇が大和へ行幸した、という話は高山茶筅の伝説上でしか聞いたことがない。葬儀費用がなくて死後40日も放置された天皇が、大和まで旅行にいけたのかどうか甚だ疑問だ。


でもまぁ、こういう地元伝承を集めるのは意義あることだと思うぜ。

しっかし

興趣を覚えて矢野理事長の紹介で秋のある日、高山の茶筅(筌)の里をたずねることにしてみた。

から始まる橋本篤慶の紀行文はなんなのだろう?


宗砌と珠光、宗祇の関係について語っているのだが、

宗祇が死んだのは文亀二年
(略)
珠光も文亀二年に亡くなった。
(略)
二人共同じ年に八十歳を越えてかき消すように世を去った。
宗祇と珠光が同一人だという仮説を立ててもそれを否定する資料はないであろう。

突発的に変な話書くなよ。っていうか証明する資料がない方を重要視しろよ。