尾張の茶道3 藩の茶道、町家の茶道

尾張藩の茶道について:

やがて尾州藩の茶道は有楽流に定着するのであるが、天保十一年斉壮は千宗室を招いた。このときの宗室は三河藩松平縫殿頭の三男に生まれ裏千家に入って十一世を継いだ玄々斎であったからである。
しかし程なく藩の茶道はふたたび有楽流に復したという。

天保から30年くらいで江戸時代が終わるので、ほぼ一貫して有楽流尾張の流派だったのだろう。
縁故で採用してみたものの、如心斎以後の派手な千家の茶風は、町方向きであって大名及び下々の武家向きではなかった、ということかもしれない。

石州系の姿が見えないのも面白い。


尾張の民間の茶道:

総町代をも勤めた岡田野水は、伊藤次郎左衛門らと共にやはり宗和流の茶をしていたが、ある時千家に覚々斎を尋ねて門人の派遣を要請し、町田秋波を迎え、千家の茶の導入の端緒を切ったのである。
上方の有力な町人の間に浸透しつつあった千家の茶へ転向を図ったのは、まことに野水の慧眼であった。

案外松尾流の影が薄い。というか薄過ぎる。

名古屋の茶=松尾流、というイメージは、近代の松尾流の努力で築き上げられたものなのだろうか?